かうて、つれづれとながむるに、などか物まうでもせざりけむ。はゝいみじかりしこだいの人にて、はつせには、あなおそろし、ならざかにて人にとられなばいかゞせむ。いし山、せき山こえていとおそろし。くらまはさる山、ゐていでむ、いとおそろしや。おやのぼりて、ともかくもと、さしはなちたる人のやうに、わづらはしがりて、わづかに清水にゐてこもりたり。それにも、れいのくせは、まことしかべい事も思ひ申されず。ひがんのほどにて、いみじうさはがしうおそろしきまでおぼえて、うちまどろみいりたるに、み帳の方のいぬふせぎの内に、あおきをりものの衣をきて、にしきをかしらにもかづき、あしにもはいたるそうの、別当とおぼしきがよりきて、「ゆくさきのあはれならむもしらず、さもよしなし事をのみ」と、うちむづかりて、み帳の内にいりぬと見ても、うちおどろきても、かくなむ見えつるともかたらず、心にも思とゞめでまかでぬ。
はゝ一尺の鏡をいさせて、えゐてまいらぬかはりにとて、そうをいだしたててはつせにまうでさすめり。「三日さぶらひて、この人のあべからむさま、夢に見せ給へ」などいひて、まうでさするなめり。そのほどは精進せさす。このそうかへりて、「夢をだに見でまかでなむがほいなきこと、いかゞかへりても申すべきと、いみじうぬかづきをこなひてねたりしかば、御帳の方より、いみじうけだかうきよげにおはする女の、うるわしくさうぞき給へるが、たてまつりしかゞみをひきさげて、「このかゞみには、ふみやそひたりし」ととひ給へば、かしこまりて、「ふみもさぶらはざりき。このかゞみをなむたつまつれと侍し」とこたへたてまつれば、「あやしかりける事かな、ふみそふべきものを」とて、「このかゞみを、こなたにうつれるかげを見よ、これ見ればあはれにかなしきぞ」とて、さめざめとなき給を見れば、ふしまろびなきなげきたるかげうつれり。「このかげを見れば、いみじうかなしな。これ見よ」とて、いまかたつかたにうつれるかげを見せたまへば、みすどもあおやかに、木長をしいでたるしたより、いろいろのきぬこぼれいで、梅さくらさきたるにうぐひすこづたひなきたるを見せて、「これを見るはうれしな」と、の給となむ見えし」とかたるなり。いかに見えけるぞとだに、みゝもとゞめず。物はかなき心にも、「つねにあまてる御神をねむじ申せ」といふ人あり、いづこにおはします、神仏にかはなど、さはいへど、やうやう思ひわかれて、人にとへば、「神におはします。伊勢におはします。紀伊のくにに、きのこくざうと申すは、この御神也。さては内侍所に、すべら神となむおはします」といふ。「伊勢のくにまでは思かくべきにもあらざなり。内侍所にも、いかでかはまいりおがみたてまつらむ。空のひかりをねむじ申すべきにこそは」など、うきておぼゆ。
しぞくなる人、あまになりて、すがく院にいりぬるに、冬ごろ、
なみださへふりはへつゝぞ思やるあらしふくらむ冬の山ざと
返し、
わけてとふ心のほどの見ゆるかなこかげをぐらき夏のしげりを
あづまにくだりしおや、からうじてのぼりて、西山なる所におちつきたれば、そこにみな渡て見るに、いみじうゝれしきに、月のあかき夜ひとよものがたりなどして、
かゝる世もありける物をかぎりとてきみにわかれし秋はいかにぞ
といひたれば、いみじくなきて、
思事かなはずなぞといとひこしいのちのほどもいまぞうれしき
これぞわかれのかどでといひしらせしほどのかなしさよりは、たいらかにまちつけたるうれしさもかぎりなけれど、「人のうへにても見しに、おいおとろへて世にいでまじらひしは、おこがましく見えしかば、我はかくてとぢこもりぬべきぞ」とのみ、のこりなげに世を思ひいふめるに、心ぼそさたえず。
東は野のはるばるとあるに、ひむがしの山ぎはは、ひえの山よりして、いなりなどいふ山まであらはに見えわたり、南はならびのをかの松風、いとみゝちかう心ぼそくきこえて、内にはいたゞきのもとまで、田といふものの、ひたひきならすをとなど、ゐ中の心ちして、いとおかしきに、月のあかき夜などは、いとおもしろきを、ながめあかしくらすに、しりたりし人、さととをくなりてをともせず。たよりにつけて、「なにごとかあらむ」とつたふる人におどろきて、
思いでて人こそとはね山ざとのまがきのおぎに秋風はふく
といひにやる。
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