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平安時代の闇と光その9|高菜のブログ

《 闇の世界の系譜 》その3 -遣唐使「最澄と空海」が会得したもの-

山野を修行の場として、放浪していた私度僧?空海は何を思ったのか延暦23年(804)、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したのです。恐らく幼い頃からの夢であった遣唐使派遣の情報を得て、その準備に掛かったのでしょう。当時、遣唐使の選定は公開試験があったわけではなく、権力者の後ろ盾ないしは、政界実力者のコネと推薦がなければ不可能でありました。
 

-宿命のライバル最澄?空海は遣唐使の同期となる-


◆最澄は20歳で受戒。桓武天皇の強力なバックアップのもと比叡山寺(天皇直下の官寺)を基盤としており、国費で留学することが出来きる恵まれた立場にありました。奈良仏教を敢然と批判し、新たな教学を打ち立てようとの試み。これは、桓武天皇の思いと合致していました。また、天皇と最澄が同じ渡来系の血を引く人であったのも大きな要素かもしれません。

最澄の入唐動機は、中国本場の天台教学の移入であり、研究対象は『法華経』でありました。
天台大師智顗(ちぎ)から、直に教えを請い仏陀の教えの神髄『法華経』を会得しようとしたのです。


伝教大師?最澄?一乗寺蔵

◆一方、空海は叔父で政界の実力者の阿刀大足や父と同じ佐伯氏の系列であった佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が遣唐使選抜の陰の推進力になったといわれています。コネがやはり、効いたのですね。また、讃岐をはじめ地方豪族の資金提供もあったのではないかといわれています。郷土の誇りとなる者が何を入唐してもたらしてくれるか期待していたのではないでしょうか

佐伯今毛人(さえきのいまえみし)
養老3年(719)-延暦9年(790)、奈良時代の貴族。今蝦夷とも表記する。紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く、異例の七階の特進をしている。


事実、のちに、「満濃池」の修復で発揮した土木工学の知識など密教以外にも様々な技術を積極的に吸収して帰国したことを考えると荒唐無稽な推論とはいえません

空海は仏陀(釈迦)の仏教から飛翔し変転した最新の教理(密教)に活路を求めようとしました。
最新の教理(密教)という表現が平安時代に受け入れられた事は重大であります。後に権力者と深い結びつきを持つに至るからであります。

そして、
長安の青龍寺で運命の師弟関係を結ぶ「惠果(けいか/えか)」と出会うことになります。


弘法大師肖像画?東寺所蔵

恵果(えか/けいか)
天平18年(746)-大同元年(806)は、中国唐代の密教僧で日本の空海の師。俗姓は馬氏。長安の東にある昭応の出身。真言八祖の第七祖。

出家した後、不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から大日系と蘇悉地系の密教を学んだ。金剛頂経?大日経の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的に改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗?徳宗?順宗と3代にわたり皇帝に師と仰がれた。また、六大弟子と言われる六人に附法した。すなわち、剣南の惟上?河北の義円(金剛一界を伝授)、新羅の恵日?訶陵の辨弘(胎蔵一界を伝授)、青竜の義明?日本の空海(両部を伝授)。なお、義明は唐朝において潅頂の師となったが、早世している。

◆第16次or18次、遣唐使として空海(31歳)は延暦23年(804)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡りました。遣唐使の航路については昨年「吉備真備」 の項でふれましたので、省略します。
第一船に空海、第二船に最澄(38歳)???という具合に、しかし彼ら遣唐使船団の行く手には暴風という魔物が待ち構えていました。

この当時の、日本人の遠洋航海技術は無知きわまりないもので、気象条件が悪い夏、台風が発生しやすい時期にわざわざ逆風のなかを風任せで中国に向かうなど幼稚というほかありません。しかも、対馬海流は逆流している。

案の定、この遣唐使船団は悉く遭難し、わずか第一船(空海)、第二船(最澄)だけが生残るありさま。また、二つの船はお互いを見失い中国海岸を漂流しながら別々の場所に着いたのです。
空海の船団は福州(現在の福建省の省都)長渓県赤岸付近に漂着したらしい。

もう一つの難関は、異国人が国使として来たという文書?証明が必要+唐語が話せなければ「長安」へ行くことなど不可能でありました。
空海の非凡さは通訳なしで唐語をあやつり、証明文書を代筆して福州の地方長官を驚かせたそうです。不法入国者扱いをしていた中国人の態度がここで、がらっと変わり「長安」への道が開けたのです。それにしても、いつ言葉を覚えたのでしょうか?東大寺で受戒を受けた頃、異国人との交流があったのでしょうか

◆長安は現在の西安市(陝西省の省都)にあたります。
- 総人口(830.54 万人)、- 戸籍人口( 764.25 万人)- 市区人口(2007年現在)423.5 万人


西安市市街地の衛星写真 google提供 

囲み線は明の時代に造られた城壁だそうです。唐時代の長安城の規模は(1950年代に始まった発掘調査によると)、東西9.7km、南北8.2km、高さ5mの外壁が取り囲み、全長65kmに達していたという。長安は西のバクダットと並び世界で一,二を競う国際都市であったそうです。スケールがでかい。


大雁塔その1 方形7層、高さ64m の威容。

大雁塔その2

大雁塔(慈恩寺)は『西遊記』で知られる玄奘三蔵が、インドから持ち帰った大量のサンスクリット語経典や仏像仏具を保管収納するために建てたものだそうです。それらの経典が漢訳され東アジア全体に広がったのです。皆さんよくご存じ(写経など)の『般若心経』は玄奘が広めたのです


惠果と空海の師弟ゆかりの寺 青龍寺、今でも密教寺院だとか。

青龍寺は大雁塔(慈恩寺)が望める高台にあり、
長安城東方を守護する伝説神、青龍にちなんで、その名がつけられたそうです。

司馬遼太郎は『空海の風景』で師弟邂逅の様子を次のように表現しています。

和尚、たちまち見て、笑みを含み、歓喜して曰く、我より汝の来るを待つや久し、「自分は寿命がつきなんとしている。???しかしながら付法(法を伝えること)に人が無かった、さっそくあなたに伝えたい???と惠果は全身で喜びを示し、きわめて異例なことに、初対面の空海に対し、どうやら何の試問もおこなわず、すぐさまあなたに全てを伝えてしまおう、と言い放っているのである。事実そのとおりになった
。」

惠果は空海に出会って矢継ぎ早に灌頂(かんじょう)を行い、わずか2ヶ月後密教最高位の法王(大日如来)を意味する阿闍梨(師匠)位を譲り渡す灌頂(伝法灌頂)を終えている。惠果は、空海に法の全てを注ぎ込んだのですね。瓶へ水を移すがごとく。

南無大師遍照金剛という法号を刻んだ灯籠が京都の東寺にあります
。彼は日本人でありながら唯一、密教の極意を体得した如来になったのだ???驚きと同時に言い知れぬ恐ろしさを感じます。もはや、普通の人間ではないと本人が錯覚(悟ったと)したら怖いものなどなくなる。
帰国すると空海は権威?権力を丸め込み、自分の密教をもって鎮護国家を説き、あるいは教王護国などといって恩を売りつけ、地上の権力を自分の道具として思想の宣布をはかろうとするのです。詳細は東寺?大覚寺偏で述べましょう。

かん じょう【灌頂】
古くインドで,国王の即位,または立太子の際,頭頂に水を注いだ儀式から転じたもの〕
仏?
(ア)菩薩が最終の位にはいる時,仏が智慧の水を注ぐこと。
(イ)密教の儀式。伝法?授戒?結縁などのとき,香水 (こうずい)を受者の頭に注ぐこと。
(ウ)墓参りなどのとき,墓に閼伽 (あか)の水を注ぎかけること。


西安市にある空海記念碑、1200年前も
昔から中国人の記憶に刻み込まれている日本人では 吉備真備、阿倍仲麻呂、そして空海。この三人だけらしい。中国の全高校の教科書に載っているとは驚き。

◆一般留学僧は期間二十年という義務?規則を打ち破り、わずか二年で空海は帰国するのです。国禁を犯しても平然と構え、すぐには都に戻らなかったわけは、中央がどう罪状を問うのか読んでいたのかも。また、その背景には密教最高位の法王(大日如来)となった自負と持ち帰った密教経典や曼荼羅?法具類などの価値が、その当時の朝廷が喉から手が出るほどの財宝であることを見抜いていたのでしょう。

ここで、都に戻るまでの空白期間に立ち寄ったとされる瀬戸内海は厳島にある弥山(みせん)という山(標高535m)を紹介致しましょう。
石鎚山は空海が山林修行をしていた当時の山岳の一つですが、不思議なことに石鎚山の峰には厳島にある弥山と全く同じ名称の弥山があります。
天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)?石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)?南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)の一連の総体山を石鎚山と呼



フェリーから見た、厳島の弥山12/05/14撮影


峨峨たる弥山の頂上を目指してその1

ロープウエイから800mほど歩けば頂上だとリーフレットに記されていたので、甘く考えて登り出すと、とんでもないアップダウンのきつい峨峨たる山道が延々と続き、頂上へ着くまでにクタクタ、汗びっしょり。これはハイキングというより登山じゃありませんか。


峨峨たる弥山の頂上を目指してその2

峨峨たる弥山の頂上を目指してその3(不動岩)


峨峨たる弥山の頂上を目指してその4 (くぐり岩)


峨峨たる弥山の頂上を目指してその5 (観音堂?文殊堂)


峨峨たる弥山の頂上を目指してその6(霊火堂=空海が修行に使った火が1200年以上経った今も、この堂の中で燃え続けていると伝えられている。広島平和記念公園の「平和の灯火」の、元火になったそうです。)摩訶不思議じゃ。


峨峨たる弥山の頂上を目指してその7(弥山本堂=帰国した空海が霊地を探し求めて厳島に立ち寄った際に御堂を建てたと伝えられている。)


弥山頂上その1

弥山頂上その2

弥山頂上その3 日本人のカップルだけでなく、アメリカ、オーストラリアなど外国人も大勢登山していました。行き帰りで”コンニチワ”の挨拶を交わす。


弥山頂上からのパノラマその1

弥山頂上からのパノラマその2
(ロープウエイ終点?獅子岩駅)が見える。


弥山頂上からのパノラマその3

弥山頂上からのパノラマその4 丘の上に見えるのは「クジラ岩」か?


弥山頂上からのパノラマその5  宮島口と宮島桟橋がかすかに見える。


弥山頂上からのパノラマその6 能美島方面を見る。

宮島はツガ林などの貴重な天然記念物?原生林に覆われています。

如何でしたでしょうか。空海を語ると、とどまるところ無しというスケールになります。

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[转载]《伊都内亲王愿文》
京都:东寺与空海
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