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平安時代の闇と光その8|高菜のブログ#main

《 闇の世界の系譜 》その2 -空海を育んだ四国と大和?和泉山系-

五月の今時、京の町は修学旅行生でごった返している。タカナも17歳の夏、その一員でありました。霧にかすむ延暦寺の根本中堂で座禅をしながら、何かしら清々しい気分にひたっていたのを覚えています。根本中堂の建立は最澄が一乗止観院の建立を許された後、志半ばで入寂し、弟子の義真によって実現しました。座禅中、タカナの脳裏には空海の姿はどこにもみあたりませんでしたが、後世の歴史は最澄を消し去り、弘法大師伝説を全国に広げたのであります。
それは、何故か?その謎に迫ってみたいと思います。

順序からいけば陰陽道の歴史の方が仏教公伝より古く、先に述べねばならないところですが、「安倍晴明」の項でふれることにします。

◆空海は宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司?佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足(あとうのおおたり)の娘(あるいは妹)で阿古屋という人であった。幼名を真魚(まお)といったそうですが、瀬戸内海に近いからでしょうか変わった名前ですね。


四国?善通寺市付近地図

空海がどうして後に遣唐使になろうという動機をもったのか、司馬遼太郎は
『空海の風景』で的確に述べています。
「摂津の難波ノ津を発した丹塗りの遣唐使船が内界を西へ帆走してゆく姿も、おおぜいの里人とともに浜にたって見たであろう。???要するに空海の生まれた環境は、唐へゆくという、普通ならば途方もないことが、ごく現実的な風景として、耳目で見聞きできるような機会が多かった。空海はその夢想を育てるためには、とびきり上質の刺激に富んだ環境に生まれたということができる。」と。

遣唐使船は善通寺市より左手の浦島伝説が残る荘内半島沖を通過していたそうです。


呉市観光案内所に飾ってあった遣唐使船の模型。実寸は(25×7m)2012/05/16撮影

◆空海が飛躍する条件の一つとして、叔父の儒学者、阿刀大足(桓武天皇の子息の家庭教師まで務めた)に漢籍を学び彼のとりなしで大学に入れたことであろう。
当時、地方官僚の子息が中央の官僚養成所へ入れるなど不可能に近かったのです。
とき延暦10年(791)、18歳。大学の明経科に入学する。

◆しかし、空海の非凡さは親族の期待を裏切り、あっさり栄達の道を捨てたことでしょうか。世の取り決めを説く、儒教と道教の説く不老長寿の薬をいくら飲んでも、結局人はいつか死ぬ運命にあるのだと批判し独自の生き方を模索したのです。
伝説によると
吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ね、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたとされている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。
そして、「自分は56億7千万年後に現れ、衆生を救うとされる弥勒菩薩の住む兜率天に向かって旅をしている。」という尋常ではない思想を持つに至った。

◆私度僧となった空海は二十歳のとき、和泉国槇尾山寺(まきのおさんじ)で剃髪したといわれています。槇尾山寺は現在の和泉市にあり、本尊は弥勒菩薩である。空海が後々まで持ち続けた弥勒信仰のルーツはこのあたりかもしれませんここ槇尾山は役 小角(えんのおづぬ)に縁があるといい、空海の当時にも山林で修行する私度僧などが出入りしたと思われる。彼ら山林の行者によって受け入れられていたものの中に密教の断片があったのですこれを雑密といいます

とそつてん【兜率天】
仏? 六欲天の下から四番目の天。内外二院あり,内院には将来仏となるべき菩薩が住み,現在は弥勒菩薩 (みろくぼさつ)がそこで説法をしているとされる。外院には天衆が住む。都史多天。知足天。

しど そう【私度僧】
律令制下,定められた官許を受けることなく出家した僧尼。

えんのおづぬ【役 小角】
舒明天皇6年(634) - 大宝元年(701)=飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。

『続日本紀』文武3年(699)5月24日に、役行者の記述があります。
役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛城山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を 惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。世間のうわさでは、「小角は鬼神を思うままに使役して、水を飲んだり薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。

とんだ災難に遭ったのですね。でも、通力か何か並外れたものをもっていたがために妬まれたのではと考えます。
その証拠に彼の死後一千年ほどたって名誉が回復されたのですね。
寛政11年(1799)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡(おくりな)を贈った。
勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されているそうです。


役行者像(五流尊瀧院) 、平成24年5月23日、
この像は石山寺の豊浄殿でも展示されているのを見ました?

◆密教とは何だろう?
密教は7世紀のインドで成立したそうです。
釈迦の教えは煩悩を断ちきる解脱でしたが、多くの人々にとっては欲望を断ち切ることなど到底できない境地でした。このような人間精神のありようをみた哲学者達が「釈迦の思想を昇華させることで、生の欲望を肯定しよう」という密教を作りあげたようです。
かれらが、その中心に据えたのが、「大日如来」という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であったのです。「大日如来」は智慧と慈悲の二大要素でできており、宇宙に存在するすべてのものに内在すると説く、これを純密というそうですが??

我々凡人に、実在しない「虚構」を信じよ、というのも解脱と同じ困難が付きまとうのではないか。しかも、思い込みが強いと「幻覚」症状を引き起こしかねない。薬のはずが猛毒になる危険性をはらんでいるとタカナは考えます。


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