その後、1919年にはフランス系のピエール?モントゥーが、1924年にはソ連出身のセルゲイ?クーセヴィツキーが就任。セルゲイ?クーセヴィツキーは、ボストン交響楽団と共に半世紀を歩み続けることとなる。彼の高度な音楽性と行動力は、ボストン交響楽団に新しい風を吹き込み、現在では夏の恒例となったタングルウッド音楽祭や、若い音楽家のための夏期音楽教育機関であるバークシャー(現タングルウッド)?ミュージック?センターの設立など、その後のボストン交響楽団の柱となるさまざまな活動をした。また、特に弦パートの鍛練にチカラを入れ“弦のボストン”といわしめるまでに実力をあげるなど、その一時代を築く。
1949年に就任したシャルル?ミュンシュは、フランス的な軽やかで色彩豊かな演奏をボストン響の持ち味としたが、1973年、13代音楽監督として就任した小澤征爾は「オーケストラにはやはりドイツ系ならではの音の強さや深さが必要である」という考えのもと、楽団の音楽家たちと試行錯誤の上、信頼関係を築きながら音の改革を進めていく。
初めは「音が濁る」と納得しなかった団員たちも、ボストン交響楽団の音色を消すものではく、また実力のあるボストン交響楽団ならできると説得する小澤に最後は説得されたそうだ。そして、ベートーベン、ブラームス、マーラーといったドイツ系のレパートリーを増やし、ドイツ系の客演指揮者を招くなどしながら、ボストン交響楽団を、色彩豊かなだけでなく深みのある強い音も奏でる重厚なオーケストラへと飛躍させていった。
「日本人に西洋音楽がわかるのか」と海外に渡ってから、たびたび質問されてきた小澤だが、ボストン交響楽団の音楽監督になってからでさえも、「仏教徒にバッハの<マタイ受難曲>やベートーヴェンがわかるのか」と聞かれたという。
「西洋とか日本にこだわらず人間として自由に考える。そこにはスコア(総譜)と自分があるだけだ。しかし、僕は死ぬまで日本人だし、理解したことは全部その上に立っている」という哲学を持つ小澤は、「美しいものを美しいと見る美的価値観は、地球上どこでも共通している」という揺るぎない信念で、西洋において歴史と伝統を持つボストン交響楽団の音楽監督を務めてきた。
ボストン交響楽団とは、途中からエヴァー?グリーンという期限のない契約になり、辞めたいときにはその3年前に伝える、また楽団の方が辞めてほしいと思ったときも3年前に伝えるという約束になっていた。そこで、2002年からのウィーン国立劇場の音楽監督就任も、1999年に発表された。
その年のタングルウッド音楽祭がまだ始まらない6月のことだったので、ボストン交響楽団のメンバーには、動揺を防ぐために発表前夜、電話連絡がまわったそうだ。そして多くの楽団員は、「悲しいけれども、好きなオペラが出来るところに行くのならよかった」と受けとめてくれたそうだが、発表後に小澤と会ったスタッフの中には、ショックで涙を見せる人もいたという。
ちなみに、タングルウッドにセイジ?オザワ?ホールがあり、シンフォニー?ホール裏の駐車場に小沢征爾が指揮を振る壁画が描かれていることなどからも、小澤征爾がいかにこの地で愛されているかがわかる。小澤征爾がボストンを離れた現在も、ボストン交響楽団は、年間250を越える公演を展開し、世界に誇るオーケストラとして存在している。
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