慶光天皇/閑院宮典仁親王 | |
---|---|
![]() 慶光天皇廬山寺陵、京都市上京区廬山寺内 | |
続柄 | 閑院宮直仁親王第二王子 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 | 1733年4月1日 (享保18年2月17日) |
死去 | 1794年8月1日(満61歳没) (寛政6年7月6日) |
埋葬 | 1794年8月16日 (寛政6年7月21日) 廬山寺陵 |
配偶者 | (妃)成子内親王 |
(女房)大中臣祐智女 | |
(女房)りて | |
(女房)紫雲院 | |
(女房)おさ | |
(女房)大江磐代 | |
(女房)加久 | |
(女房)交野 | |
子女 | 致宮 俊宮 方宮 良宮 弥数宮 時宮 孝宮 祐宮 寛宮 精宮 鏗宮 建宮 |
父親 | 閑院宮直仁親王 |
母親 | 讃岐 |
テンプレートを表示 |
閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう、享保18年2月17日(1733年4月1日) - 寛政6年7月6日(1794年8月1日))は、江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」(きょうこうてんのう)または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)。
古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。
東山天皇の孫で、閑院宮直仁親王の第二王子。養母は関白近衛基熙の娘、藤原脩子。実母は家女房の讃岐。御息所は中御門天皇の第五皇女、成子内親王。
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝廷では、1779年に後桃園天皇が男子を残さないままに崩御した為、典仁親王の第六皇子として生まれた師仁親王(兼仁親王)が急遽即位した(光格天皇)。光格天皇は、父である典仁親王の宮中での地位が大臣より低い事から、太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、江戸幕府老中?松平定信などに反対され、贈る事はできなかった(尊号一件)。
1884年(明治17年)になり、明治天皇の高祖父にあたるという事で「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた(明治以後に「太上天皇」制度が廃止された関係で二重の手続を要した)。以後、閑院宮典仁親王ではなく、慶光天皇または慶光院と称される。ただし歴代天皇の代数には数えられない。
この項目は、日本の皇室、皇族に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆?訂正などしてくださる協力者を求めています(Category:日本の皇族)。 |
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆?訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |
联系客服