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星新一 《声の網》3 家 庭

雨が降っていた。三月の雨。日曜の夕方の時間と空間のなかを、雨滴たちは地面へと急いでいた。少し前まであたりに残っていた冬のなごり、寒さとか乾燥とか、とげとげしさとか、人の動きをにぶくするなにかとか、そういうものをやわらかく消している。

「いかにも春らしい雨だなあ……」

 三十五歳の男が長椅子にねそべり、パイプをくゆらせながら、窓のそとに目をやって言った。ここはメロン?マンションの三階にある一室。窓からは住宅地区の中央の広場を見わたすことができる。雨は地にしみこみ、草の根に春の訪れを告げているようだ。

「あなたらしくもない言葉ね……」

 そばで彼の妻が言った。だが、からかいの口調ではなく、幸福感のリズムがこもっている。そばでは六歳になる坊やが、床にオモチャをひろげて遊んでいる。小さなネジで組立て、クレーンを作ろうとしていた。雨では広場に行けないのだ。三月の雨は室のなかにもなごやかな静かさをもたらす。

 男はつぶやいた。

「まんべんなく整然と降るなあ。雨というやつ、雲のなかでどんなふうにしてできるのだろう。考えてみると、うまくできすぎている。われわれ、だまされているんじゃないだろうか。もやもやした雲のなかに、だれも知らぬしかけがひそんでいるとか……」

 彼の名は洋二といった。職業は月刊誌の記者。どちらかといえば硬い傾向の雑誌で、彼は毎号ルポルタージュを書いていた。数人で資料を集め、それをまとめるのだ。〈朝の思考―通勤途中の頭〉というのが、四日ほど前に書きあげたものだ。多くの人は通勤途中でどんなことを考えているか、これを調査しコンピューターで分析し、ひとつの説をみちびき出したものだ。悪い出来ではないが、かといって満足感もあまりなかった。

「ああ、なにかもっと、みながあっと言うようなものを書きたいなあ。いい題材はないものだろうか……」

 洋二は口のなかで言った。読者が目をみはり、他誌がうらやみ、編集長が喜び、自分でも手ごたえを感じる。一回でもいいから、そんなのを書いてみたかった。

 その時、電話のベルがひびいた。

 洋二はゆっくりと立ちあがり、受話器をとった。仕事の電話から解放される休日もいいが、夕刻ごろになると、ベルの音へのなつかしさを覚えてくる。電話はこうも日常的になっているのだな。彼はふとそう思う。相手の声が耳に伝わってきた。

「むかし、駐車してあったダンプカーの荷台を動かし、砂利を道路にぶちまけてしまったことがあったな……」

「なんだと、なにを言うんだ……」

 洋二は急に不快になり、受話器をもとにおいた。腹立たしさがあとに残った。それがでたらめだからではなかった。事実、そのような経験を彼は持っていたのだ。

 あれは二十年ちかくの昔になるだろうか。彼は窓ぎわに立ち、雨のむこうの景色を眺めながら回想した。少年期から青年期へ移る不安定な年代。彼と友人たちはいたずらに興味を持った。あるいたずらにあきると、もう少し刺激の強いことをやる。気づかぬうちに、それはひとつの線を越えてしまっていた。

 学校の帰りの夕方、彼は友人と駐車中のダンプカーをみつけ、運転手のいないのを知り、思いつきをためらうことなく実行してしまった。荷台が動き、砂利が道路に流れ落ちて散った。ことの重大さはすぐにわかった。通行の車が急停車し、車の列ができ、やがてパトロール?カーが到着し、あたりがさわがしくなる。

 洋二と友人とはすばやく逃げたが、それ以来、強い罪悪感におそわれた。悪質な行為との報道を、彼らはふるえながら読んだものだった。あの日を境に大人になったようだな、と洋二は追想する。いたずらへの欲求は消え、無目的な子供っぽい行為がばかばかしくなり、社会の一員という自覚みたいなものを知りはじめたのだ。

 それは洋二とその友人との二人だけの秘密になっていた。だれもそばにいない時、バーの片すみでとか、電話での雑談の話題の切れ目とかに、そのことにちょっとふれる。おたがいの古傷にさわりあうのだ。年月によってもはや傷とはいえないものとなっていたが、友人としてのつながりを確認しあう習慣みたいなものなのだ。いや、儀式と呼ぶべきかもしれない。

 微妙な反省の楽しさがある。秘密というものは、秘密である限りいつまでも古びない。話しあうと、きのうのことのように新鮮によみがえり、胸がときめき、発覚へのスリルさえなまなましく感じられるのだ。

 それをこう無神経に、だしぬけに電話で話すとはなんたることだ。おごそかな儀式なのだ。その友人の声のようではなかったが、ほかに知る者はいないはずだ。やつめ、気がおかしくなったのかな。洋二は心の一部で怒ると同時に、心配にもなってきた。

 彼は自分の書斎に入り、そこの電話機の番号ボタンを押した。その友人はテレビ局の報道関係につとめているが、日曜は自宅にいるのが普通だった。相手が出る。洋二は言った。

「おい、さっきはどうかしてたのか……」

「ああ、きみか。しばらくだな。元気かい。なんの用だ。さっきとは、なんのことだ」

 相手はとまどい、洋二もとまどった。

「いま変な電話をしてきたじゃないか」

「しやしないよ。食事中だったもの」

「そうかなあ。しかし、その電話の声、むかしの古傷を突っついてきたんだ。われわれ以外に知らないはずのことを……」

 洋二がふしぎがると、友人が言った。

「あ、そうか、そっちにもか……」

「おい、それはどういう意味だ。きみのところにも、なにかかかってきたのか」

「いや、なんでもないよ。べつなことさ。気にしないでくれ」

 友人は打ち消した。なにかそわそわした口調。洋二がいくら聞き出そうとしても、はっきりした答はしてくれなかった。なにかがはさまっている感じ。だが、それがなにかは洋二にもわからなかった。彼は電話を切った。どういうことなのだろう。疑惑が頭のすみにひっかかったまま残った。

 夕食をすませ、家族とともにテレビを見ていると、また電話が鳴った。友人が考えなおし、事情を話してくれる気になったのだろうか。洋二はそう思いながら受話器をとった。

「むかし、駐車していたダンプカーの……」

 友人ではなく、さっきの声の主だ。

「いったい、どなたです」

「だれでもいい……」

「そんなことってあるか」

 洋二は勝手に切った。なんということだ。しつっこいやつめ。この調子だと、またかかってくるかもしれない。彼は先手を打とうと、ダイヤルをまわし、電話サービス?ステーションにたのんだ。

「これから外出します。かかってきた電話は、どこからか記録しておいて下さい。あしたまでよろしくお願いします」

「はい、かしこまりました」

 家庭用録音装置もあるが、それだと家族がよけいな心配をするだろうと考えたからだ。

 それから眠るまで、洋二の頭のなかでは、なにかがうごめきつづけだった。なかなか眠りにつけなかった。ひっかかることばかりではないか。妙な電話。それに友人のおかしな応答。つながりがあるのだろうか。ありそうな気もするが、どんな関連だろう。どう結びつけたらいいのだろう。どんな仮定を……。

 一方、内心の人目をひくルポを書きたいとの意欲が想像のはばたくのを促進していた。濁った液がかきまわされているうちに反応し、結晶しながら沈澱してゆくように、ひとつの仮定がうかびあがってきた。

 盗聴と関係のあることかもしれない。友人が他言するはずがないし、おれだってそうだ。その二人だけの会話が、横からなにものかに盗まれたのだ。技術革新は休みなくつづいている。盗聴用の装置もずいぶん改良されているという話だし、なにかの時に調べたところでは、信じられないほど小型のがあった。それが虫のように電話線にくっつけばそれで終わり。バケツの穴なら、水のへったことでそれと気づく。だが、盗聴の場合は、いつとわからずに……。

 彼はいやな気がした。おれは目をつけられたのだろうか、その相手はだれだろう。いまの職業、雑誌の記者ということに関連しているとも考えられる。同業の競争誌の商略かもしれない。おれに圧力をかけ筆をにぶらせれば、競争誌もそれだけ有利になるというものだ。

 しかし、洋二はすぐに打ち消した。それほどの価値が自分の文にあるとも思えなかったのだ。彼は苦笑いし、べつな仮定を立てる。とすると、なんだろう。ルポでよく書かれなかった者のいやがらせだろうか。いや、そうでもないだろう。盗聴の手間と、発覚の危険と罰とはあまりに大きい。そうまでして、胸がすっとするだけでは、うるところが少なすぎる。

 そうでないとすると。彼は頭を傾け、もうちょっと苦しみ、やがてひらめきを感じた。今後に関する、もっと遠大なことなのだろう。どこかの業界が、こちらの弱味をにぎり、それに有利な記事を書かせる。ありうることだ。企業間の競争ははげしい。他をだしぬき、すきをみつけてもぐりこみ、自己の陣営に引きよせるよう工作する。そんなところだろうな。なかなかの陰謀だ。よほど悪知恵のあるやつのアイデアにちがいない。

 いやいや、そこまで頭が働くのだったら、なにも一つの業種に限ることはないと考えるはずだ。効果と能率と利益とをあげるために、一種の代理業だって成り立つわけだ。一方でマスコミ関係の要所要所にいる者の弱味をにぎり、一方で企業に連絡をつけ、巧妙な操作を商品として売りつける。大きな金額が動く、非合法な産業。

 どんなやつがやっているのだろう。あるていどの組織になっているにちがいない。コミュニケーション機構を利用し、それを食いものにする一派。怪獣のような寄生虫だ。

 洋二は闘志のわいてくるのが自分でもわかった。

 これをあばかなければならぬ。書こう。社会に対しこれほど衝撃的なレポートはないはずだ。きっと評判になる。しかしおれのダンプカー事件の古傷もあばかれるかもしれない。彼は気にしたが、噴火の如く高まってきた仕事への興奮は、それを吹きとばした。あれはむかしのことだし、世に大きな害を及ぼしたわけでもない。この陰謀とはくらべものにならない。それに、やつらには盗聴しているという不利がある。こっちをあばけば、かえって証明するようなものではないか。表だっては争えないはずだ。

 正義感と興奮、使命感と名誉心。そういった感情が彼をひっかきまわした。

「よし、書くぞ」

 彼の叫びで、妻が目をさまし、ねむそうな声で言った。

「どうなさったの」

「なにか頭がさえて眠れないので、酒でも飲もうと思ってね……」

 彼はそうした。決意をたしかめる乾杯でもあった。

 

 つぎの日、雨はあがり、いい天気だった。雲がただよっている。洋二は雑誌社に出勤し、それから自分の住宅地区の電話サービス?ステーションへと出かけた。昨夜からの興奮は、からだのなかにまだ残っている。陰謀への挑戦をこれからはじめるのだ。

 ステーションの建物は大きく清潔で機能的で、どこか冷たい美しさがある。洋二はそこへ入り、まず昨夜依頼した留守電話記録係のところへ行った。自分の番号を告げてから聞く。

「どこからか電話があったでしょうか」

 係の若い女は答えた。

「なにも、わざわざおいでになる必要はございませんのに。電話ですむことでございますわ」

「いや、ちょっと用事がありましてね、そのついでに寄ったのです」

「一回だけかかってきましたわ」

「どこからです」

「なんともおっしゃいませんでした」

 そうだろうと洋二は予想していた。あの謎の声の主からだったのだろう。なんの収穫もえられなかった。そう簡単に手がかりをつかめるわけはない。

 洋二は受付で内部の見学をしたいと申し出た。雑誌社の取材だと言うと、それはすぐにみとめられた。業務内容のPRは歓迎すべきことなのだ。見学案内係の人のよさそうな男は、洋二に防塵服を着せながら言った。

「ほこりが立つと電子部品にいい影響を与えませんので、これを着ていただきます。さて、どこからごらんに入れましょう」

「さあね、そうだ。ぼくの家の電話の、ここにおける末端はどこでしょう。まず、そこを見せて下さい」

 交換機室は広い部屋で、大型の電子装置が何十台も並んでいる。温度二十度、湿度五十五パーセントに保たれた空気のなかで、正確な動きがくりかえされている。カチカチとかタタタという音が飛びかっている。

 洋二はなにがどうなっているのか、その方面の知識はなかった。これが科学なのだ、これが機械文明なのだ、そんな印象だけが迫ってくる。彼は聞く。

「あのタタタという音はなんですか」

「接続ですよ。つまり、番号をさがして呼び出している状態というわけです」

「なるほど」

 会話という最も人間くさい行為、それをつなぐ作業が、この人間くささのないすがすがしい形でなされている。あざやかともいえる対照だった。案内係が一ヵ所を指さして言った。

「ここですよ、あなたの家の電話は、番号が同じでしょう」

「そうだな」

 小さなナンバー?プレートがついていた。プラスチックの透明な板の窓があり、なかがのぞけた。しかし、のぞいてもどうということはなかった。洋二が見つめていると、窓のそばの青い豆ランプがともり、タタタという音がはじまった。

「どこからかおたくにかかってきたところです。なかなか出ませんね。お留守だからでしょう。ここでもお話できますよ。あそこの電話に切り換えてさしあげましょうか」

 案内係は装置の一隅についている受話器を指さした。しかし、その時、洋二はふと考えた。もしかしたら、昨夜の正体不明の声の主かもしれない。直感でそう思ったのだ。

「いや、けっこうです。それより、この電話がどこからかかっているのか、調べることはできますか」

「やってみましょう」

 係はそばのボタンを押した。装置の上の標示スクリーンにR―58との字があらわれた。洋二は聞く。

「なんですか、R―58とは」

「その番号の装置を経過してかかってきた電話だ、ということです」

 二人は部屋を歩き、その交換装置にむかった。洋二は期待で興奮していた。まもなく、なにかがわかるのだ。しかし、結果は落胆だった。そこの標示スクリーンは白く、なにもうつっていない。係は指さして言う。

「残念ながら、だめでした。逆探知不能の回線を通ってかかってきたらしい」

 洋二は不満げな声で言った。

「へんじゃないですか。逆探知不能回線とは、身上相談センターのような特殊な業種へのものだけでしょう。ぼくの家にはなにも関係ないはずです」

「そうなんです。しかし、他の回線が混雑していると、臨時にそれが使用されることもあるわけです。コンピューターにより能率的にさばかれているのです」

 そういうものかもしれない。だが洋二には、すなおにうなずけない気分が残った。

「そのコンピューターとやらも見たいものですね」

「地下にございます。どうぞこちらへ」

 階段をおり、その部屋に入る。銀色をした巨大なものが、複雑なメカニズムのムードをただよわせてそこに存在していた。室の一隅には三名の技師らしい人が机にむかって控えている。洋二は案内係に言う。

「これはどんな性能なのですか」

「とてもひと口には説明できませんが、記憶、演算、処理、連絡、すべてにすぐれた型だという話です。このようなのが、各ステーションにあるわけです」

「なかをのぞいてもいいでしょうか」

「どうぞ……」

 外側のおおいの一部をあけてくれた。くもの巣を大量に集めたように電線がからみついている。赤や青、黄や緑などさまざまな色で、|縞《しま》や水玉もようのもある。このように電線を色分けしてでもおかないと、混乱してしまうだろうな。その程度は彼にもわかり、彼にわかるのはその程度だった。

 理解を越えた装置が現に社会にこのように存在し、休むことなく動きつづけている。世の終わりまで停止することはないのだろう。そう思うと、なにかいらいらさせられた。彼がのぞきこみつづけていると、係が言った。

「おもしろいですか」

「いや、盗聴装置でもまぎれこんでいるんじゃないかと思いましてね」

「なんですって、とんでもない。なぜそんなことをおっしゃるのです」

 案内係の表情は急に変わった。ひとのよさそうな感じが微妙に変化し、あわてたようなものとなり、そして消えた。

「むかしニューヨークの電話会社でおこった、十万本におよぶ盗聴事件のことを思い出しただけですよ。そんな苦情みたいなものを耳にしたことはありませんか」

「ありませんよ、そんなこと。許されるわけがないでしょう」

 係の声は大きくなった。洋二は、許されないことの起こるのが社会でしょうと言いかけたが、それはやめた。

 その時、ブザーの小さな音がひびき、装置の一部で赤いランプが点滅した。技師のひとりが立ちあがり、その部分を引き抜くようにとりはずし、かわりに新しい部品をさしこんだ。ランプは消え、音はとまる。

「いまのはなんですか」

 と、洋二は技師に質問した。

「この部分に接触状態不良の現象が生じたので、とりかえたわけです。簡単でしょう。この大コンピューターには故障の自己発見機能もあるのです」

「えらいものですな。どういうしかけなのですか」

「さあ、知りませんね。ランプで指示され、入れかえる。それですむのですから、いいじゃありませんか」

「この構造にくわしい人はだれですか」

「点検部長です」

 洋二は案内係に言った。

「そのかたに会わせて下さい。ここの見学はこれでけっこうです。ありがとう」

 案内係とは、点検部長室の前で別れた。

 名刺を出すと、ひまだったのか、すぐ面会することができた。五十歳ちかい神経質そうな男だった。洋二は言う。

「ちょっと取材させて下さい。いま、いろいろと見せていただいたところです」

「すばらしいものでしょう。社会はより複雑に、より大きくなる一方です。それを正確に円滑に保ち、進歩させる。その一役をになっているわけです。誇らしく思いますよ」

「あのコンピューターの構造はよくご存知なのでしょうね」

「もちろんですよ。私が指揮をとり、定期的に点検しております。また、他のステーションの部長とも会合し、研究会議を開いたりしております。なにしろ責任重大ですからね。もし狂ったりしたら……」

「ひとつだけですが、失礼なことをお聞きします。こんなうわさはありませんか。どこかで盗聴がなされているのではないかという……」

「冗談をおっしゃってはいけません……」

 部長は笑いとばした。しかし見つめている洋二の目には、そこになにかわざとらしいものが感じられた。こめかみあたりが少しふるえていた。

「ありえないことだと……」

「もちろんです。末端のほう、家庭内とか企業内とかで、小型装置をとりつけてひそかに非合法におこなわれている場合については、断言できませんが……」

「末端で可能なら、あのコンピューター内部においても、可能は可能でしょう」

「困りますなあ、そんな理屈は……」

 部長は説明の言葉をさがそうと口をつぐんだ。その時、机の上の電話が鳴る。部長はそれを取り、緊張した顔つきになった。短く答えるだけで、やがて受話器を戻し、洋二に言う。

「ちょっと急用ができましたので失礼させていただきます。しかし、雑誌などに、根拠のないことを臆測だけで書かれては迷惑します。その点はよろしく」

「わかっております。そんなことをしたら雑誌のほうも評判が落ちますから。では、おじゃましました」

 洋二は点検部長室を出た。廊下にしばらくたたずんでいたが、部長はべつに出てこなかった。急用ではなかったのだろうか。

 洋二は他の部課をまわった。苦情受付課とか、人事部。人事部では前任の点検部長の名を聞いてみたりした。しかし、どこでも、手ごたえのある話はえられなかった。うやむやな、要領をえない点があるようだ。

 彼の気のせいかもしれない。謎の問題点をとりかこむ壁のようなものが感じられてならなかった。壁があるとすれば、だれがこのような壁を作り、どのような力で壁を保持しているのだろう。洋二は疑惑を深めた。と同時に、挑戦への闘志をかきたてられるのだった。

 

 雑誌社へもどり、洋二は考えをまとめようとした。だが、なにもまとまらない。とらえどころのない膜のような存在を感じているだけなのだ。

 椅子にかけ机にもたれ、目を閉じると、さっきの装置が浮かぶ。細い電線の、もつれた網のような姿。カチリと音をたてて動くなにか。その他わけのわからない部品のむれ。集合体。敵がいるとすれば、その電子部品のジャングルの奥にひそんでいるのだ。

 闘志だけは高まるが、どこから手をつけていいか迷う。彼は退社時間がすぎたのも気づかず、ぼんやりと机にむかいつづけだった。これは予想以上に大きな事件かもしれぬ。自分ひとりの手にはおえそうもない。しろうとだけではだめなのだ。電子関係にくわしい専門家を加えた特別取材班を編成し、社としてことに当たるべきかもしれない。それによって、敵をジャングルから狩り立てるのだ。

 彼は決心し、その企画書を書きはじめた。夢想と思われて笑い飛ばされないように書かねばならぬ。心のなかの炎を、どう表現したものだろう。意外とむずかしく、筆はなかなか進まなかった。

 そばで電話が鳴る。洋二はあたりに自分ひとりであることに気づき、それを取った。

「はい……」

「よく聞いてもらいたい。あなたは以前、ある夫人と火遊びをした。その亭主がそれを知ったら、ひと騒動になる。あなたの家庭もまた……」

 昨夜の正体不明の声だった。洋二は青ざめて聞きかえす。

「いったいどうしてそれを……」

「そんなことは、どうでもよろしい」

「で、それがどうだというのです」

「これを平穏にすませたいのなら、こちらの条件をいれてもらいたい」

「なんです、条件とは……」

「これ以上、つまらぬせんさくをしないことだ。なんのことかはわかるはずだ。それだけでいい」

 電話の声には距離感がない。遠くからか近くからかわからず、推察を拒否する。

「いやだと言ったら……」

「いまのことを関係者に知らせるまでだ。念のために言っておくが、あなたについてのそれ以上の秘密も知っている」

「考えさせてくれ……」

「いいだろう」

「返事はどうしたらいいか」

「返事などしなくていい。あなたの行動はすべてわかるのだ」

 電話は切れた。洋二はしばらく呆然としていた。あんなことまで知っている。ダンプカー事件では力が弱いと知ってそのつぎの切札を出してきた。どこで秘密を知ったのだろう。いずれにせよ、この調子だともっと多くのことを知っているのかもしれないのだ。ふしぎさとともに、ぶきみさを感じた。ゆっくり考えてみなければ……。

 彼は書きかけの計画書を破った。物かげからうかがっているだれかに示すように、こまかく破ってくず籠に捨てた。紙片はかすかな音をたてた。

 その音とともに、残っていた闘志も弱まっていった。かわって、ためらいの気持ちが大きくなってゆく。おそらく、強行しようとしたら、敵は先手を打つだろう。自己の悪評がひろまり、社内でのけ者にされ、つまり記事は書かれることなしに終わるのだ。

 洋二は自宅へと帰った。メロン?マンションの三階。妻子が夕食を待っていた。

「パパ、おかえりなさい。おそかったね。早くごはんを食べようよ」

 と坊やが言う。妻は洋二をいたわる。

「あなた、お疲れのようね。お酒でもお飲みになったら……」

「ああ」

 彼はうなずく。酒の酔いが気分をほぐしてくれる。いつも食事の時に聞く、なごやかなバックグラウンド?ミュージック。おだやかなムード。やはり家庭だ、と洋二は思う。

 これを守らなければならぬ。よけいなやつが、これを乱しに入ってくるのを許してはならない。あの条件をのむべきだろうな。むこうとの約束では、どんな記事を書けとの強制はしてこない。ただ手びかえればいいのだ。そのかわり、平穏という大きなものが保証される。家族とともに生きる人生において、平穏以上に価値のあるものがあろうか。

 しかし、いくらかの反省もある。記者としての使命はどうなるのだ。やましさが胸のなかで少しあばれる。しかし、それを押さえつける。だれか、ほかの者がやってくれるだろう。若く元気で、過去の透明な者が。おれはとしをとったのだ。中年に入りかけている。それぐらいの妥協は許してもらわなければ……。

 そのうち、洋二は想像する。熱狂がさめたせいだろう。あのステーションの連中の壁をささえている力がわかりかけてきた。彼らもみな、そのような圧力を受けたのだろう。点検部長の机の上で鳴った電話も、あの声の主からだったかもしれない。口をふさぐための。

 そんなことで、身動きがとれず、強力な壁となっているのだろう。洋二はつぶやく。おれもいつのまにか、その壁の一員となってしまったようだな。おれもこの件についてだれかに聞かれたら、そしらぬ態度をとるだろう。

 自分の魂の若々しさが飛び去って行くようだった。青年期から中年への移り目。彼は立ちあがり、窓からそとを見る。けさは春めいていたが、天候の変りやすい季節。そとには寒さがもどってきていた。室内はあたたかいが、窓ガラスにさわるとつめたかった。

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