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『西郷隆盛』を読んで

 もともと木戸孝允のことを書いた本を読むつもりで、図書館で探したものの、みつからなかったので、『西郷隆盛』を選んだ。それは、岩波新書の、けっこう古いもの(1960年4月出版して、現在まで48年経過している)で、著者は圭室諦成氏である。

 恥ずかしながら、長い間、私にとって西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の区別はほとんどついていなかった。彼らは「維新の三傑」と呼ばれ、西郷と大久保は薩摩出身、木戸は長州出身という漠然とした印象しかもっていなかった。今年の大河ドラマは「篤姫」で、篤姫と同じ出身の西郷たちは、当然ながらドラマの中で活躍している。また、先生の講義で明治政府成立後の話を拝聴し、西郷隆盛という人物像が少しずつ明確になった。しかし、それとともに、なぜ慶応の功臣が明治の賊臣にかわったのかという点が疑問に感じられた。

 『西郷隆盛』は「薩摩藩の担い手」、「幕府打倒」、「征韓論」、「西南戦争」という四章に分かれている。これはちょうど西郷の一生の「起源」、「発展」、「高潮」、「壊滅」の四段階を表しているようである。

最初の「薩摩藩の担い手」は、西郷の誕生、受けた教育、薩摩藩各階級の生活を紹介している。西郷は文政10年(1827年)12月7日、鹿児島城下加治屋町において、御勘定方小頭の西郷吉兵衛の長男として生まれた。西郷家の家格は御小姓与だが、下から二番目の身分で下級藩士であった。隆盛には兄弟が七人もいるにもかかわらず、父の俸禄は少ないため、家族の生活はいつも苦しかったようである。長男であった隆盛は、父が死んだ後、代わりに弟と妹の世話をした。この親分的経験は、隆盛の一生に影響し続けたように感じられた。そして、薩摩藩の郷中教育は武芸を主としており、その軍隊に近い訓練方法は、隆盛の後の人生の中で、武力を信じる思想の形成に大きな影響を与えたと思われる。

薩摩藩は調所広郷の財政改革によって、財政赤字から抜け出し、巨大な資金を持つようになったが、それとともに、藩内に藩主の人選をめぐり、いろいろな騒動が起こった。幕府の後ろだてもあり、嘉永4年(1851)2月2日、当主島津斉興が隠居し、評判が高い世子斉彬が薩摩藩主になった。隆盛は斉彬の側近として、薩摩藩と京都で大活躍した。この段階で、隆盛は周りの人々、特に藩主の斉彬から、新思想と新知識を多く吸収し、それが後に道を開く原動力となったといえる。しかし、斉彬が死んでから、隆盛は藩主久光との関係がよくなかったため、一時政治の表舞台から消えてしまった。久光の政策が行き詰まるとともに、隆盛も改めて登場した。禁門の変と二次征長戦争を経て、薩摩藩の立場は幕府擁立から、長州との連携にかわった。当然、この中で、隆盛と大久保・木戸が果たした役割が大きいことはいうまでもない。

第二章「幕府打倒」は長州初征から、戊辰戦争の終結までである。この部分では、隆盛が大活躍した。これまで彼が藩内で築いた関係は、彼を薩摩藩実力者までおしあげた。この段階では、隆盛は、当時の有数の先見者の一人たる勝海舟から影響を受け、隆盛も、自然に勝の極先進の思想を受け入れた。薩摩と長州の連携は結果からいえば大成功で、その時にみえる隆盛の見識に感服した。あえて幕府に反して、朝敵に当たる長州と手を組むのは、誰でもできることとは思えない。そして、明治維新は、実は薩長連軍と幕府との戦いという本質がよくわかった。他の諸藩は天皇という大義名分の下で、徳川幕府を壊滅させただけであった。天皇のためでもなく、庶民のためでもなく、彼ら自身のため、つまり、自分の藩のためでしかなかった。

第三章「征韓論」で隆盛の人生は最高潮に到達する。そして、それと同時に、彼の転落が始まった。新政府の功臣として、隆盛は当然ながら議政官の参議に任じられた。しかし、軍人出身の彼はあくまでも一藩の器に過ぎないと感じられた。中央政府の官僚として、政治家としての自覚は彼にはみえない。もちろん、隆盛が政府高官の贅沢風に否定的な態度を持つことは、私にとって感嘆すべきものだが、しかし、政治的には、薩摩のことだけに拘って、その利益にだけ専念する態度は、政治家として失格といえる。調和性が隆盛にははるかに欠けているように感じた。先にも少し触れた隆盛も親分的性格が彼の終焉を決めたといえる。先生の講義で、征韓論の話題がのぼったことがあり、その時、なぜ隆盛は征韓論に執着するか、よく理解できなかった。しかし、今は、少しわかったように感じられる。征韓論は徴兵制度と関わり、それは、隆盛のプライドとも関連する。彼は征韓を通して、政府の徴兵制度に異議を唱え、薩摩藩の藩士が征韓のために切腹した。自分の子分の死を無駄にしないために、隆盛は自分の意見を主張し続けた。しかし、その結果、征韓論の隆盛が政府から追い出されることになった。

第四章は「西南戦争」、つまり隆盛の最期である。薩摩藩の藩士を主体として、政府軍と戦うというのは、極めて大胆な計画である。もしかすると、彼は自分の力を過大評価したのかもしれない。しかし、その無謀な計画は失敗という一途にたどるしかない。敗戦と退却の繰り返しは、彼が窮地に陥ることを示している。城山の決戦は壮烈といえた。「隆盛は別府晋介を顧みて介錯を命じ、波乱にとんだ五十一年の生涯を閉じました」という、この部分を読んでいるとき、私は思わず涙がこぼれた。本の著者は隆盛に対して、批判的態度を取っており、彼はただ周りの人の進言のままに行動したと書いている。しかし、私は隆盛がそのような人間ではないと感じた。彼は故郷に、子分に深い感情を持っている人間であった。政治家としては、確かに一流とはいえないが、しかし、人間としての彼は魅力的な存在と認めなければならない。西郷隆盛は、大久保や木戸と違って、彼自身の正義を貫くために、戦ったのである。

 以上が、『西郷隆盛』を読んでの私なりの拙い西郷隆盛評である。

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